2021年8月・9月 記憶にない夏
8月にブックライティングの〆切が2つも重なり、中旬に1つ、末日に1つと、ものすごい量の原稿をまとめないといけなくなってしまった。色々ずれこんでのことなので仕方ないのだけれど、計算したらそれ以外の仕事も含めて、7月と8月で47万字近くの文字をどうにかしていたらしい。
さすがにこれだけやると、時間のなさもあるが、精神的に余力がなくて日記を書くという行為になかなか移れなかった。そして、9月はまさに反動ともいうべき感じで、ものすごい量のレシピ本を買いまくったり、久しぶりにドライブしたことをきっかけに初めて自分で車を買ってみたりした。巨大なストレスの反動を買い物に傾けたわけだ。積極的な自己投資だと良いふうに理解している。
料理をして、本を読み、料理をして…という仕事以外の興味はダイエットと料理に傾けていた。外へ飲みに行くこともなかったが、数回の「宅飲み」があり、それはそれは楽しかった。楽しすぎてたいがい飲みすぎることになるが後悔もなく、むしろ新鮮で甘酸っぱい時間さえあった。
そういった雑事のもろもろはTwitterに投げっぱなしになっていて、やはりただフローしていくツイートだけでは寂しく、時系列もわからない、何より日常がさらさらと流れてしまう感覚が嫌になってきて、また改めてこの日記でも何かを書いていこうと思った次第。
ワクチンは2回目も打った。
写真家のスティーブン・ショアの写真集を買って、眺めているとき、なぜショアの写真がいいのかをあれこれ思っていた。別の写真の難しいことを考えたわけではなく、この「なんとなく」がなぜ良いのかを、ずっと何でだろうなぁ、と思っていた。雑誌の『IMA』でショアが特集された号を買って読んでいると、それがショア自身で語られていて、なるほど、となった。
長年にわたり普通の日々を撮ることに惹かれる理由のひとつは、日常的な世界こそ、注意深く生きることを表現できる豊かな土壌だからである。劇的な出来事は、あなたを突き動かす。一方、ありふれた日常に対して意識的になるには、あなた自身が行動しなければならない。
雑誌『IMA』ショアのエッセイ「注意力を育てる」より p,113
ショアは写真集『Uncommon Places』の初版で、建築家のルイス・サリヴァンの著書から文章を引用したという。それが、下記だ。
「注意力」は、私たちが持つ能力の真髄である。自分の「方に」物事を引き寄せられるこの能力を持って生きれば、人生におけるさまざまな経験を手に入れることができる。何かがかなりの「印象」を残したとしたら、あなたはそれを忘れないだろう。従って、人生の道を進むにつれて、あなたの蓄積された経験はより豊かになり、それらをさらに応用することができるようになる。しかしそうするには、「見る」行為と「聞く」行為を通して、注意力を「育てる」必要がある。記憶力について気にしなくていいが、本当の意味で「生きる」ことを学ぶべきだ。それは、注意を払うことが生きることであり、生きることとは注意を払うことだということ。そして、何よりも忘れてはならないのが、あなたの精神は、見ることや聞くことよりも高い能力を持ち、より線細で崇高な注意力を発揮することである。
雑誌『IMA』ショアのエッセイ「注意力を育てる」より p,113
日常に意識的になるには行動しなければならない。そして、それには注意力がいる。ツイートだけではそれが散漫になってしまうし、日記だけでもいけないのだが、どちらもそれを書こうとする意志をもたせる意味では、注意力を上げるための良き友になるはずだ。
もっとも何月何日、何曜日、晴、曇、また雨とか雪とか、或はどこへ出掛けたとか、用事が足りたとか足りなかったとか、ほんのメモに過ぎないような日記には、書き落しや覚え違いはやむを得ないにしろ、わざとなされたさし控えや、おぼめかしや、乃至誇張や粉飾はまずないとしてよかろうが、もっとこまやかな生活記録は、それらの意識にともすれば作用されかねない。トルストイが普通の日記のほかに、なお秘密な手記をもち、靴の底に隠していたと伝えられるのは、日記というものの本質に厳かな示唆を与える。こころの純粋な独語は、神のまえよりほかには洩らされないものであろう。しかもなお書からなければならないところに世に生きる人間の哀れさ、悲しさ、不思議さがある。
野上弥生子『花』「日記について」p,147
哀れで悲しく不思議な生き物として、また日記をつけようと思う。書けなければ音声でもいいわけであり、いずれかの僕が振り返り、それは一年の末日か、一生の最期かはわからないけど、誰のためでもなく自分のために、そしてわずかながらにある「誰か」のために。
1986年生まれ、東京都武蔵野市出身。編集者・ライター。「生活技巧」発行者。