2021年10月 平穏な
世界が足早に過ぎてしまったのではなくて、僕が世界を無自覚に手放しているだけなのだ。何か書き留めておきたい気持ちだけが、ぼんやりあったまま10月が終わってしまって、これは恒例のように11月の頭に書いている。10月は何があったんだろう。
こういうとき、ひとまずカレンダーを眺めてみるのだけど、そこには「予定」という顔をして、ぼくの人生が一つひとつ使われていった何某かが刻まれている。それは本当に使うべきものだったのか、費やされるべき時間だったのか。一つずつを検証することもせず、ただ過ごしてはいないのか。
内省にはそれなりに効果もある一方で、すでに過ぎてしまったものを取り返すこともできないわけだから、基本的には過去に想いを馳せることに意味はない。使ってしまったお金も、投資でなければ戻らない。だが、そこに意味を見出したり、価値を拾い上げたりすることはできる。そういう意味では、とても愉快な10月だった気はする。
ダイエットを少しお休みするような気持ちで、結構飲みにいった時間も多かった。その割には、体重も微増くらいでキープできたし、よかったよかった。
茨城県の水戸で飲んだのは最高だった。水戸に現地集合、現地解散。気のおけない友達と、この気楽な時間を持てたのは、当然にコロナ禍という事情も相まって、とくべつなものになった。
マイカーも無事に納車されて、気楽に出かけたくなって、本当は仕事をしないといけないときに、ふらっとちょっと遠くのサウナへ逃避することもあった。この自由は、とてもよいものだった。移動を思い出した、といった感じがあった。もっと遠くまで行けるし、その自由は現代人に与えられた、この日本で許された、大きな娯楽と喜びのはずなので。
もっといろんなところへ行きたいな。「あそこに行きたいんだけど」って、声をかけられるのもいいな。ぼくの新しい愛車はコンパクトだけど長距離ドライブも難なくできることがわかった。実は月末に金沢まで車で行ったのだ。ぜんぜん苦もなく片道5時間。どうやら相性がいいのかも。
友達が我が家に来てくれて、それでごはんをつくって、みんなで飲んだり食べたり映画を見たり。そんな時間がたまらなく愛おしかった。
ほんとうは小難しいことをもう少し考えて、せっかくの日記に書いておこうと思ったんだけど、頭の中だけでぐるぐるしていてまだうまくいかない。人間には美学と信仰がそれぞれ必要であること、僕にはアート的態度で生きることはどうやら向いていないこと、温和と聡明を人生で希求すること、などなど。
どんな大人になりたいか、と言われたら、ぼくは温和で聡明でありたいのだ。怒りの感情はぼくの駆動力にはなく、このあたたかなエネルギーこそがぼくを静かにたぎらせているのだ、きっと。ひとそれぞれの生きるエンジンを、何かの型にはめないようにしなければいけない。誰もが社会や世界に怒りを持たなければならないわけではない。社会や人生に果たすべき役割があって、自分なりの美学や信仰があって、愛情があって、それを見つけていくのがきっとこれからの5年間なのかもしれない。
ぼくは自分がもっと若い頃、まさにイキってしまって、何がしかの芸術にかぶれ、文芸というものをなにか特別なものにするために、ポーズをとって大切なものをたくさん手放してしまったんだ、と思っている。それはきっと僕がすべきことではなかった。ただ、それをしたから今があるのも確かだけれど、もう取り戻せないものも時間も恋も夢も経験も同じくらいある。
良し悪しよりは、それって本当によかったんだろうか、と思うだけで、この行き着いた先で、ぼくが何ができるかを考える他はないのだ。その点で、そういうポーズや態度は、たしかに僕の役割ではきっとない、ということだけをわかったのは大きいのかもしれない。
世界は足早に過ぎ去ってしまうね。ぼくは今、どこにいるんだろう。何ができて、何ができていないんだろう。誰かを幸せにすることができる大人になりたい。僕は僕を幸せにするけれど、きっとそれだけだと寂しいのは、世界にぼくという存在が「いてよかったね」と少しでも、つよく、はっきりと、思ってもらいたいのかもしれない。
新しい日々をつくりたい、という気持ちもある。移動はできるようになった。ぼくにとって、昨日よりも今日が、もっと眩しくうつくしいものであるように。でも、だいぶ、世界がやさしい色を帯びてきた気がする。緑がゆれて、太陽が照らして、サウナの外気浴で、ぼくはそんなことを思っていた。
1986年生まれ、東京都武蔵野市出身。編集者・ライター。「生活技巧」発行者。