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2020年4月30日(木)歯科医かわいい

歯医者に行った。昼過ぎの待合室は思ったより混雑していて、患者も待っていたし、院内もわたわたとしている。ちょっと驚いてしまう。

COVID-19がいくらあっても、歯の問題には関係がないから、当たり前ともいえる。あぁ、想像力が足りていない…。

髪を切るのはまだ我慢できるけど、歯が痛ければ悲しくて仕方ないだろう。

僕は3月15日の日記に書いた「なんだか歯茎が痩せている気がする」の現象に好転が見られないので、不安になって訪れたのだった。

「症状はいつからですか」と先生に聞かれて、ぼくはとっさに「3月の半ばだと思います」と答えていたのだけど、日記の効用を感じた。もし書き留めていなかったら、昨日の夕飯さえ思い出すのに自信がないぼくなんて、ぜったいわからなかっただろう。

日記に残しておくことで、もちろん検索もできるけれど、どこかで頭の引き出しにもぽんと入れられるのかもしれない。日記、つけててよかった。

診断の結果は……なんと異常なし。異常なしどころか、歯と骨の丈夫さを褒められるくらいだった。歯茎に骨のようなものが見えるのは、噛み締めが強いなどの理由で、顎の骨の形が変わってきて、それに伴って歯茎の表面の膜が「薄く見える」ようになったせい。

何を言ってるんだかわからないと思うが、歯科医の先生も「なんて言えばいいかなぁ、えーっと……」と困っていたような状態です。ま、異常はないのだ。

レントゲンも念の為に撮ってみると、虫歯もなくてきれいなもの。ただ、親知らずが、まぁどっかりと奥歯に横向きで鎮座していて、すぐにでも病巣になりそうで怖い。ちゃんと予防しなくっちゃ……という気持ちになる。

それにしても、歯科は、医師も衛生士も、みなさんマスクをしているので、女性陣はなんだかもれなく可愛く見える。マスク効果にあふれている職場だ。

レントゲンを担当してくれた方が小柄で可愛かった。勝手にどきどきして、行動がぎくしゃくしてしまい、面倒をかけて申し訳なかった……。近しい距離で、女性と目を合わせて話すのが久しぶりだったせいかもしれない。自粛生活はそういう免疫(?)も衰えていくのか。

夜は、毎月29日の定例飲み会が、一日ずれてZoomで開催。ネット環境がまだ普及してないので、この日もビジネスホテルで。二度やって思ったけど、これ、やっぱりいい。


2020年4月29日(水)オヤジと田んぼ

ドーミーインで目覚めたら4時半。寝汗がすごい。サウナ効果で体がぬくかったのかしら。

でも、そんな寝汗も朝から大浴場でさっぱり、サウナにも入って、朝の気持ちいい空気を吸う。毎日こんな朝で始まるなら、どれだけいいだろう。住みたい。

露天風呂でテレビが見られるようになっていて、NHKが映っている。ドキュメンタリーで、福島県葛尾村で米作りをする男性を追っていた。『オヤジと田んぼ~福島葛尾村 コメ農家は奮闘する』という題。

最初はただ、ぼんやりと見ていたのだけど、結局最後まで動けず。

原発事故で一時、全村避難を余儀なくされた福島県葛尾村。4年前に避難指示が解除されたが、今も多くの住民が避難先から戻らず、村を支えた米作りの衰退が心配される。こうした中、農家の花井忠二さんは、まだ戻らない人たちの田んぼも引き受け、村の再生に乗り出した。補助金制度の打ち切り、巨大台風による被害、出荷のための放射能検査。次々襲う苦難にも、米作りを諦めない男たちと家族の苦闘を追った。語り・皆川猿時(俳優)

NHKドキュメンタリー – にっぽん ぐるり 東北ココから▽オヤジと田んぼ~福島葛尾村 コメ農家は奮闘するより

花井さんはもともと建設業者で、米作りは片手間というか、季節ものの労働という感じだった。それが原発の一件から、自分の村に黄金色の田んぼが見えないことに奮起して、米農家に本腰を入れて復興を始める。

米農家仲間も手探りだったり、復活させたりして、次第に葛尾村に田んぼが戻っていく。ところが、台風が来ると除染の済んでいない山林から水が流れ込んでしまう。育てている米にも放射性物質の影響が出てしまうのだ。

米をつくるための土地だけでなく、周囲全てに影響があるのだ、という観点が僕にはなかった。それは実にやりきれないだろうとおもう。

そして、実りの秋。新米出荷前のセシウム含有量検査を、仲間と祈るように「(基準値以上が)出ねぇ、出ねぇよ」と声をかけながら見ているシーンは、ぐーっと胸に迫るものがある。基準値を超えたら、せっかく作った米は出荷も食用もできない。

無事、検査はパス。葛尾村の米が食べられる日がやってくる。今では花井さんの姿勢に娘たちも「尊敬する」と仕事を手伝うようになった。休耕地を田んぼに変えていきながら、雪がちらつくなかで田んぼを前に、作付面積を増やしていく意欲を見せる花井さんの姿で映像は終わる。

花井さんは「達成感」について話していた。自分がやった、という達成感が自分を動かす、ということだった。きっとそれはもう、仕事かどうか、なんていうのを超えた感情だろうな。何かを達成したいという欲求は、人間を強く動かしてくれる……。

そんなドキュメンタリーを見て、すこしお湯に浸かりすぎてぼんやりしたまま、美味しい朝ごはんをいただいてから、事務所で仕事。

引き受けた仕事が、ぜんぜん終わらない。途中から、引き受けたことを後悔するくらいで、もうなんだか本当に心で謝り通しだった。ただ、そういう仕事から自分の「次」が見つかることもあるはずなので、変に断ろうという思いでもないのだけど、よくよく注意しないといけないな、と考えた。

自分が苦手な作業が含まれていて、それが他人にとっては苦でもなさそうな場合は、すぐに人を頼るとか。当たり前のことができなさすぎて悲しくなる。そして、とにかく自分は「意味」に動かされるんだなぁ、とも感じていた。

ぼくも花井さんにとっての米作りのような仕事に、はたと出会うときが来るのだろうか。


2020年4月28日(火)安息日

ゴールデンウィークが目前ながら、これだけ静かで気乗りしないのも珍しい……というか、仕事がもろもろ詰まっていて、とにかくずっと仕事しないといけないのがわかっている。振り返れば、この4月は、ほんとうに進捗がよくなかったんだとおもう。

この日も夜通しの仕事をして、30分だけ椅子で寝落ちてから、15時には近場のドーミーインにチェックイン。速攻で風呂。全力でサウナ。体の隅々まで熱を染み渡らせる。部屋で即寝。夜は前々から約束していたオンライン飲み会。

自宅のWiFiが僕の手違いで128kbpsしか出ない上に、iPhoneもすっかり速度制限にかかってしまっていて、かといって仲間もいるので事務所で……というのも気が引けて、チェックイン。これがすこぶるよかった。生活技巧なので、別記事でまとめておくつもり。

『M 愛すべき人がいて』の第2話を観て大爆笑し(嘲るのではなく興奮と感動で)、田中みな実さんへの愛が深まったところで気絶眠。運動もしていないのに、疲労と倦怠がすごいらしい。

今日の一晩が、ゴールデンウィークの仕事まみれを駆け抜けるリフレッシュになればいいが。


2020年4月27日(月)賢さとは

瀬田一乃さんが絵、小野美由紀さん原作のマンガ『メゾン刻の湯』の上巻を読んでいたら、銭湯の「集い合える」が今では成り立ちにくい寂しさを覚えながら、湯気の香りを恋しく思う。

そのなかで「賢さ」について、長老の戸塚さんがこんなことを言っていた。

…賢さというのは、今、自分が何に立ち向かい、何に立ち向かわないかを、選べる能力のことです。

『メゾン刻の湯(上)』

「何に立ち向かうか」だけではなく、「立ち向かわない」が入っているのがいい。すべてにいかに立ち向かうかを考えてしまいがち……賢さとはその漸進性にあるのではないか、と思うところだけど、何もすべてを本当に変えることができる、という考えこそが驕りでもあるはずだ。

その上で立ち向かわない、という選択も確かにひとつの賢さで、そして自分がそう決めたことは、他の人にとっては「立ち向かう」と考えることかもしれない。そんなふうに、各々が立ち向かえる賢さを発揮することができれば、案外に社会は無理なく変わっていくのだろうか。

『文豪と借金』で山口瞳のスタンスがよかったので、ツイートで残す。

今日一日、驚くほど体調が悪くて、何も手につかないうえに、夕方からぐったりと眠り込んでしまう。月末までに、という仕事のもろもろがあって弱っているのに、あぁ……。夜中前に起き出して、事務所でひとまずPCの前に座って、ゆっくり手を動かしている。


2020年4月26日(日)御破算

『文豪と借金』が面白くて、一気にずーっと読んでしまった。

それにしても昔の人(という言い方でいいのか)は、ツケだの約束だの、どうしてもそんなに鷹揚にお金を捉えていたのだろう。それができなくなったのは、いつからなのだろう?

もちろん仕組みや制度としてはキャッシュレスのが便利だし、わかりやすいし、証拠もはっきりするし……と向かうべきはそちらだと感じる。ただ、この本の中に出てくるキャッシュレスとは無関係な人々の営みは、とても人間臭くて、「生きている!」って思わせる。

『二十四の瞳』を書いた壺井栄の「苦労の御破算」という話は、現代でも持っておきたい精神のひとつかもしれない。壺井栄は「御破算という言葉をどうしてか私は昔からすきだ。」と始める。御破算は「そろばんで、盤面を払って零にもどすこと」だから、全部チャラにってやつだ。

その、一旦無しにする選択を、壺井栄は「人も羽を生やして飛べるのは嬉しい限りだ」と書く。

飛ぶ前に十露盤を投げ出して御破算にしてしまうようなことは度々あった。それをしらないものが自殺を考えたり心中をしたりするということにもなるらしい。私の同級生の中にも、家庭のいざこざを苦にして海へとびこんだり、夫婦で自殺をした友だちもある。なぜ「御破算」のできる十露盤をもたなかったかと、友のために口惜しく思う。「飛ぶ」ことは一種の御破算である。それが封建時代の歪んだ希望であったにしろ、人間にも羽を生やすことができるとは、うれしい限りではないか。義理や人情にがんじがらめにされて、それにたえられぬ者のたった一つの生きる道が羽を生やして飛ぶことだったとは。ひとりで飛ぶことのできないものは飛ばしてもらうこともあった。私の姉の一人なども飛ぶに飛べない羽交いじめの中で泣いていた嫁だったのが、あるとき母から、
「どうしてもいやなら、飛べ」とそそのかされて、目がさめたらしかった。

『文豪と借金』壺井栄「苦労の御破算」p.176

昔、作家も含めて、夜逃げしたり、行方をくらましたりして「飛ぶ」ことはあったようだ。もちろん決して褒められたものではないが、生きていくためにも必要な手段であるのは間違いない。

法的な御破算の仕方もちゃんとある。何か悪いことを考えるより前に、御破算をすることも、常に手札として持っておくだけで、すこし生きやすくなる。


2020年4月25日(土)借金と孤独

徳田秋聲全集の「小品文作法」に、日常を観察して、よく感じようと発破をかける部分がある。

ぽかんとしてゐては何事も摑めるものぢやない。どうしても感ずる力が強くなくてはいけない。無感覚のものは、無精神と同じ事になる。感ぜよ感ぜよ。力を美を真を!かう叫びたい。

徳田秋聲『徳田秋聲全集「小品文作法」』p.305

ぼくはこういうアジテーションっぽい文章に弱いので、きゃー、となってしまう。叫ぶ、というほどの主張ができる強さを羨ましく思うのかもしれない。しかし大事なことだ。感じよう。

Twitterでカツセマサヒコくんが紹介していた『文豪と借金』が届く。文豪たちの借金を願い出る手紙やエッセイをまとめた一冊。彼らの厚かましいのに丁寧(で、また文章の妙もあって)な数々の思いが実に面白い。

冒頭、末永昭二さんが借金の見方をちょっと変える気づきを書いている。

金を借りるということは、借金の苦痛による「痛痒さ」で、自分が孤独ではないということを確認する作業ではないか、と思えてきた。そして、個人対企業の借金が主流である現代の眼で、個人対個人の濃密な人間関係を見ると、なにかうらやましささえ感じられてくる。

『文豪と借金』p,12

作家はひとりで書き続ける。朝も夜も、ずっとひとりだ。その果てのないような生活のなかで、他人が存在しなければ発生し得ない「借金」は、実は孤独を癒やす手段でもあった……と、いえば聞こえは良い気もするが、気持ちとしてわからないでもない。

相手は金を貸したことを覚えているだろう。誰かの記憶にある状態(良かれ悪しかれ)は、あるいはそれで手紙が来ることは、孤独でない自分を確認する瞬間だったのかもしれない。

「インスタント袋麺でつくる油そば」が美味しそうだなーっと試してみたら、これが美味しすぎてハマってしまう。どれくらいかというと、2連食するくらい好きだった。

とはいえ簡単で、丼に付属のスープを半分ほど、ラード、酢を少々入れて、10秒レンチンすれば基本のタレは完成。あとは茹で汁を少々加えて、湯切りした麺を合わせる。

他の油そばの作り方で加えていたなと思って、ぼくはここにオイスターソースと、タレのキリッとした感じも欲しかったので醤油も足して、濃いめの味に仕上げた。

トッピングは何でもよし。茹でた鶏むね肉があったので、それをサイコロ切りにして乗せた。あとはネギ、卵黄、にんにく、マヨネーズ、つまみで買ったベビースターラーメンも。きゃあ!ジャンク!

まぁ、おいしい。この味の暴力がすばらしい。鶏むね肉を多めに入れると、麺を増さなくてもお腹いっぱいになるのでよさそう。しばらく食べ続ける気がする。


2020年4月24日(金)積ん作業

目覚めると13時。そこそこの時間で参った。寝起きに徳田秋聲全集の「小品文作法」を読み進める。やっぱり良いことが書いてある。基礎になるものだ。OCRで起こしてnoteで公開し、みんなに知ってもらったら、良い発掘だなと感じる。

やりたいな、とおもうけど、やれるかな、ともおもう。積ん読ならぬ、積ん作業。

YouTubeに時間を吸われつつ、仕事。すんなりいくかと思った原稿が意外と難産。ちょっと肩に力が入っていそう。まとめるだけまとめきって、珍しく時間があるので、一晩寝かせる。

所用で、あまり使っていないDropboxを開いたら、昔付き合っていた女の子の写真がいっぱい出てきて、心臓がばくばくとなる。体いっぱいにエモさが流れ込む。10年ほど前のことだ。二九会のグループに思わず話すと、Nさんから「チュープリ発掘したみたいだ」と言われ納得。

それらしい所作は写っていないけれど、これはまさしく、そういうものだ。ぼくが、好きで好きで仕方なかったんだろうな、と思える感情の溢れたデジタルデータ。これが写真かデジタルか、という話はきっと大事ではなくて、僕がそう思える対象だ、ということ。

(と、今日まとめていた原稿で、近しい話を教わって、「これか!」と目が白黒する)

感嘆のため息しか出てこない、けれど、幸せだな、ともおもう。ただのセンチメントの季節。

積ん作業がまた増える。


2020年4月23日(木)朝の市場みたいな

早朝の肉のハナマサに行くと、みんな顔見知りって感じの会話が飛び交ってていい。顔ぶれも定着するからだろう。システマチックな営業スタイルと、その街ならではの人情が、掛け合わさっている感じがする。

仕事の打ち合わせでSkypeの複数人打ち合わせを指定され、試したらストレスしかなかった。担当者さんには申し訳ないけど、これは使えない。潔く「複数人の場合は、Zoomやハングアウトの利用をおすすめします。でも、1対1なら、ぼくらがいちばん音も映像もいいです」みたいに割り切って案内してほしいレベル。

今度、リモート取材でもSkypeを使うとかいう話になっていて、誠に不安しかない。

夜はGO FIGHT CLUBをリモートで受講。神回。

そうそう、僕がこれを受講しようと思ったのは、こんな話が聞きたかったからだ、と思えるくらいの良い回だった。有料講義なので多くは書けないのだけど、兎にも角にも、やっぱりすごい人は自分のしていることを言語化できるものなのだ。あと、話し方もうまい。

話し方がうまいのは、何を話せばいいのかが、そもそも明確だからだと思う。だから、多くの言葉を費やさなくてもいい。それに、予防線も張らない。テキストは読み飛ばせるが、声が聞き飛ばせない。

海外のYouTubeは撮影道具やガジェット比較なんかでも、かっこよくて、ハードな感じがして好きだ。きっちりしてる。クールでギークな感じが良い。大きなLEDライトが欲しくなる。

朝方まで仕事をして帰宅。細切れサーモンの塩昆布漬けをつまみつつ、勧めてもらった椎名うみさんの『青野くんに触りたいから死にたい』を読み始めたら、止まらなくなる。

脳が覚醒していくような途中で、大きな不安感にも襲われる。ぼくはそもそもホラー系も苦手なのだ。この作品は、それほど強くないけど、既刊後半にいくにつれて要素が高まる。眠ってしまいたいのに眠れない。

湧き出した不安感を治めるように、CBDワックスを吸いながら頭を落ち着ける。既刊6巻を読んでもなお、持て余した体に、プラープダー・ユンさんの『新しい目の旅立ち』を読み進めて落ち着ける。突然に、殴られたようにがっくりと頭が落ち、全てを閉じて眠った。


2020年4月22日(水)田中みな実さん…!

朝まで仕事をしつつ、横目でAbemaTVで『M ~愛すべき人がいて~』を流すと、これがもう面白くてしょうがない。伊集院光さんがラジオで、おそらくネタ的に見てみるのを勧めていたので乗ってみたら、ぼくはまっすぐドラマとしてツボってしまったのだった。

原作には出てこないらしい田中みな実さん演じる眼帯の秘書、最高に怪演だしセクシーだし、もうほんとうに好き、田中みな実さん好き、ってなってしまう感情を抑えられなかった。

なんとか納品して、気づいたら気絶眠ですっかり夕方を超えていた。なんてことだ。いや、体からの素直なメッセージであることはわかるのだけど、にんともかんとも。

思いつきで作った料理が見事に不発で、不貞寝のように『グランディアⅡ』のプレイを進める。戦闘やシステムにも慣れてきて、ストーリーも面白くなってきた。辞め時を失って数時間。

夜明けに掛かって納品(の予定。これを書いている時点ではまだ終わっていないので、希望的観測。)


2020年4月21日(火)予感

寝起きで徳田秋聲全集から「小品文入門」を読み進めている。丁寧にルビが全部に振っているせいでOCRがうまくいかずに難儀するのだけど、これはやっぱりとても良い資料かもしれない。頑張ってOCRと手打ちで直していく…というプロジェクトも思いつくが、さて、できるか否か。

緊張気味にリモート取材を一件終えて、想定よりも和やかに、熱く、面白く、お話が伺えてすごくホッとする。そしてとても励まされる内容だったし、人間はいまこそ「人間とはなにか」を考える季節が来ているんだな、とも思わされる。

自分の仮説を確かめるのに、会社や仕事をつくるのは、すごく相性がいいんだろうとも感じる。

さらにもう一件、リモートで仕事。さらに、こんこんと仕上がらぬ原稿に難儀しながら、どうにか朝まで掛かって納品する。なんだかんだ、起きてから寝るまでずっと何かしていたな。

深夜に、酒と勢いで、ちょろちょろ調べてプリンストンのHDMIビデオキャプチャー「PCA-GHDAV」を買う。これで手持ちのX100TなどをHDMIでつないで高画質Webカメラにするテストもできそうだ。ゲーム実況もできてしまう。おお、やるか、ゲーム実況…?

本格的にMac miniのポートがまったく足りなくなってきた。ポート開拓が必要だ。


2020年4月20日(月)料理ばかりする(妄想)

3時間もリモート会議の動画を見ていたのに、それが終わってもYouTubeで料理動画ばかり見ている。ほんとうに料理動画が大好きなのだ。

料理は日常的な可能性と夢の拡張だ。「こんなものが食べれたらいいな」「作ったら楽しそう」など考えるだけで胸がときめくし、つくって食べたら美味しい。しかも上手になっていく。すごいのだ。料理ほど尊いものはなかなかない。

なんでこんなに料理動画が好きなんだろうと思ったら、シンプルに「明日、誰かをもっと幸せにできる手段」(自分含む)だからなんですね。

料理をしているときには、頭がすっきりする。一挙手一投足が、味わいという夢につながる。もしかしたら僕は仕事なんて全部やめて、好きな人のために料理をしていれば、それでいいのかもしれないと思うほど。

お気に入りのYouTuberがいくつかいるので、それを中心に過去動画や新着動画も見る。

実際に作ったあとで貼ろうかと思ってたけど、そのうちやるぞ…!な動画をまとめておこう。

研究思考を持ち、あらゆる出来事を研究材料として捉え、課題解決を考えすぎずに「研究するぞ!」と前向きな姿勢で日々と向き合うことが、とても大切なんですよね。


2020年4月19日(日)充実の感覚

目覚めると、あきらかに体と心が違う。前日の酒はまだ残っている感覚はあったのだけど、体の芯が通っているというか、心がちゃんとした位置に収まっているような。「充実」という感じ。

昨日、Podcastと、Zoom飲みで、わーっと、あれこれと人とずっとつながって、話していたおかげじゃないかと思う。

ぼくはだいぶ、いま、デジタルな身体性とか、リモート時代の存在欲求とか、そういうキーワードに敏感になっているせいもあるんだけど、明らかに昨日の会話が「僕にも居ていい場所があり、僕を僕らしく保ってくれた」と思わせる効果があったんだろう。

精神のゆらぎが減って、どこかお腹の中に力が湧くような充実の感覚が蘇ってきたのかもしれない。いつまで続くかはわからないけれど、自分にとってこれが大事なことは、わかる。

永田希さんの『積読こそが完全な読書術である』が届いたので、仕事の逃避的な意味もありつつ、めくりはじめて、読み終える。他律的に情報が氾濫する時代に、積読によって「自律的なビオトープ」をつくろうという主張はおもしろい。それは自己肯定にもつながるという。

 情報の濁流の時代は、さまざまな誘惑によって、この自分で肯定できる何かを構築しづらくなっている時代なのです。
 ビオトープ的な積読環境は、読者をファスト思考のカオスのなかで混乱させる情報の溺流のただなかに、自己を肯定するための足場を提供することになるでしょう。ここまで書いてきたとおり、今後ますます書物の価格は高騰し、本を入手するハードルは高くなっていく可能性があります。また、何度も書いているように、本を積むことには、それをすぐには読めないという「うしろめたさ」があります。しかしこれらを理由にして「読めない本を積むこと」をやめてしまえば、結局のところファスト思考に踊らされて、自己は肯定されないまま生きていくことになります。
 ビオトープ的な積読環境の構築こそがスロー思考であると考え、自分のための文化資本を蓄積することによって、情報の濁流にかき消されない「自己の輪郭」を作る必要があるのではないでしょうか。

永田希『積読こそが完全な読書術である』p,211

ちょっと文章がうねうねしている感じがあって、ぼくはあまり相性が良くなかったのだけど、積ん読で自己の輪郭を作ろうというのは、感覚的にわかる。

「他人の本棚を見るのって面白いよねー」の理由のひとつだ。それは、そこにその人の思想というよりは、持っている本の集積によって輪郭が見えてくるからなのだ。

試してみたくて買ったAKGのUSBマイク「Lyra」が面白くて、つないで遊んだ。この見た目を前にすると、「なにか話したいな!」って気にさせてくれるので良い。音声配信アプリデビューもきっと間近だ。

と、そんなことをしつつ、遅れてしまっている仕事に着手をして……いく……。


2020年4月18日(土)デジタルのからだ

昼間にこたまる(@kotamaru)さんのPodcast「fragment.fm」に出させてもらって、あれこれとおしゃべりする。リモート収録。

音声ファイルの合体と調整はこたまるさんがやってくれたので、僕はただしゃべるだけ。ありがたい。楽しかった。最近買ったものから、ぼんやり考えていることまで、あれこれと。収録だけでも2時間半くらいになり、収録後にも結局は2時間くらいおしゃべりしていた。

Podcastの中でも話に出たのだけど、Zoomなど含めたリモート会議や通話においては、カメラは眼の代わりであり、マイクは声の代わりになる。それらの品質が実在の自分を、デジタル上でより肉体的に近づける鍵にもなるはず。

実際に会えない人が、バーチャル受肉をせずに「人のまま」デジタルによりその人らしく存在するためには、それらの品質を高める工夫が必要だよね、と。

これはカメラやマイクに投資をする言い訳だけでなくて、おそらくウィズコロナ時代を生きていくうえでも、ぼくは結構好きな考え方になるはずと思っている。

先日読んだ、ドミニク・チェンさんと孫大輔さんの対談で、「心臓の鼓動を伝えるデバイス」が紹介されていて、すごく興味深かった。

チェン いろいろな人の鼓動に触れてみると、それぞれが全然違います。そもそもこれは、川口ゆいさんというアーティストが「心臓の鼓動を作品に使いたい」と大阪大学の安藤先生に相談してつくり始めたものです。だから当初はウェルビーイングや医療のことなど、まったく考えていませんでした。しかし、国内外で1,000人くらいの人々にワークショップを通して体験してもらったところ、先ほど孫さんもおっしゃったような「ちょっとあたたかくなる」とか「共感が生まれる」「感情移入が起こる」といった反響がたくさんあったのです。

それを僕たちは科学的に解き明かそうと考えています。こうしたハプティック(触覚技術的)なフィーリングというものが、たとえば今のスマホなどには全然ないですよね。でもうまく活用できればたとえばSNSで炎上したり、イライラしたり、フィルターバブル(自分と異なる意見の人を受け入れられなくなること)に陥ったりする現状を変えていけるかもしれません。

対談:ドミニク・チェン × 孫大輔「ウェルビーイングを考える」

「ハプティックなフィーリング」が伝えられるようになった後のデジタル世界。これもデジタル上に身体性を引き寄せる話というか、むしろ「人間に身体性を取り戻す話」なのかもしれない。

あと、台湾のオードリー・タン大臣がインタビューでこんなふうに言っていた。

──同じことが日本で起きるのには、結構時間がかかりそうですが、高齢化が進む日本で、できるだけ多くの人たちにデジタルテクノロジーの恩恵が行き届くようにするにはどうしたらいいのでしょう。

定額で4Gの使い放題を提供することが鍵だと思います。

ホログラムで市民と対話!? 全世界が注目する台湾の”デジタル大臣”オードリー・タンが語るCOVID-19対策と新しいデモクラシーのかたち|黒鳥社|blkswn publishers Inc.|note

定額4G使い放題になったとしたら、出先でもどこでも通信容量を気にせず、すぐに動画で話せて音声でしゃべれる。そのときには確かにデジタルとリアルの制限が、また曖昧になるだろう。デジタルデバイスが身体の代替になりやすい世界が、また一歩近づくというか。

収録の後で、よく連れ立ってサウナに通っていた「サウナ部」というグループの人たちと、サウナ行けないけどZoom飲みしましょう、というお誘いがあり、嬉しく参加する。みんな酒を飲みつつ、自分たちはゲームしてたり、YouTubeの動画観てたりと、好き放題(僕も仕事したりしていた)。

でも、その好き放題な感じと、ふわーっとした会話が心地よくて、ずっとつないでいた。Fさんが「なんだか大学生のときみたいな飲み会だった、こんな時間がまた来るなんて」と言い得て妙だった。無目的で、無生産な、実に大学生らしい時間だった。ぼくは好きだ。


2020年4月17日(金)クッキーおいしい

シャッツキステの通販で買ったクッキーが届く。ふだんはお菓子の類をぜんぜん食べないせいもあるけれど、これが美味しくて、つい止まらない。

甘いものが嫌い、とかではなくて、単にお菓子を食べる習慣や趣味がないことと、一応は健康的配慮(なのだけど酒を飲むので気休めでしか無い)。

クッキーを食べながら、回らない頭なりに手は動かして、できる仕事を形にしていく。食べ物のことばかり考えている気がする。

「まかないチャレンジ! 河原のあべ」さんの動画が好きで過去回も含めてよく見る。墨田区向島で「河原のあべ」という天ぷら屋さんを営む店主が、まかないとしてあれこれ手際よく作っているところを見せてくれる。

このマグロの血合い肉を使ったねぎますき焼きは、濃いめの味付けでご飯も酒も進みそうで、実にいい感じ。ぶつ切りにしたネギは、火の通りと味の染み込みのために隠し包丁を入れる。

マグロの血合い肉を食べたい欲が続いている。なかなか出る欲求でもないはずなんだけども。

社会人2年目くらいまで、近所のスーパーで冗談みたいな値段で投げ売られていて、血合いステーキにして食べていた。飲み物はたしか100円以下で買えたユーロホップなる発泡酒だった。

年齢が34歳だから、もう10年は前になる。あの頃の自分からしたら、今の僕のおかれた状況は、良くも悪くも、何もかも信じられないだろう。過去の自分が「早くその未来生きてぇ!」って思えるような日々を過ごしてあげたい。

……そんなことを言いながら、夜中の3時半。手がついていない仕事をやっつけるためにハイボールの缶を開ける。ごめんな、過去のぼく。


2020年4月16日(木)可能性の喪失

藤原啓治さんの訃報が届く。がん、だそう。Twitterも悲しみの気持ちにあふれる。

そのニュースを目にして、僕の胸にも寂しいような、悲しいような気持ちが渦巻いた。これってなんだろうとすこし見つめてみて、「可能性の喪失」が根本の一つにあるのではと思った。

その人がいたかもしれない未来で、成し遂げられなかった明るい何某か。それは希望にも似た願望だけれど、根本から、絶対的に、叶わないことへの悔しさや寂しさ。

何も藤原啓治さんという素晴らしい声優さんだから、というわけではなくて、自分の知る人、関わった人、それからこれから関わるかもしれなかった人、誰にでも起きる話だ。この世に自分がいる限り。人の死は、結局、自分が死ぬことでしか決別できないのかもしれない。

確定申告の締切日なので、どうにかこうにか資料をまとめあげ、クレジットカードで税金納付の手続きをして、夜中の税務署の時間外ポストに投函しにいく。歩く人の姿はまばらで、こんな言い方は不謹慎だし、危険で心配だけれども、東京は空気が澄んでいるような気がする。

成瀬心美さんがYouTubeで激賞してたマクドナルドの新作・サムライマックの「炙り醤油風 ダブル肉厚ビーフ」を食べたら、本気で美味しすぎたので定番化してほしい。


2020年4月15日(水)狂った朝食サンドイッチ

確定申告をせねばならぬ、と重い腰をあげて領収書の整理などをする。どれも日付と数字と店名の先に確かな自分がいるはずなのだけど、とんと検討がつかないような紙切れがたまに出てきて、気になって調べてみると記憶がむくりと蘇ってくる。

記憶って案外、奥深くの方にしまわれていて、とっかかり次第でいろいろ引っ張り出せるものなんだろうな、とおもう。逆に言えば、さっさと奥深くにしまってしまうタイプなのが僕で、それが整理整頓されていたり、全部が見えるところに置けたり、人によってもちがうのだろう。

やらなければいけないので、ひたすらに確定申告作業。つらくなって酒を飲み、また数字を打ち込み……と繰返して夜中。

メモを見返したら「ナイトメアアキハバラプロジェクト」と書き残されていた。

夜中のアキハバラをおさめておく いつかの背景資料になるように。

と、思いついたらしい。なるほど。酔いのなかで思いついたのね、未来への自分の便りを。

たしかにいまは出歩けないこともあって、そういう需要も一定あるかもしれない。自分の防御もあるので悩ましいところだけど、アイデアとして。

友達がFacebookで、バターを敷いて熱したフライパンにネギ入りの溶き卵を流し入れ、そこに食パン2枚を並べ、チーズを乗せ、とじ込んで「オムレツパン」にするというレシピ動画をシェアしていた(見たほうが早いです)。

「インドのストリートグルメに影響されました!」的なことをシェアしている文に書いていて、原文には“This INSANE breakfast sandwich(狂った朝食サンドイッチ)”ともあった。

狂った朝食サンドイッチ。勢いが最高の字面だ。休みの日とかに作ってビールで決めたい。


2020年4月14日(火)爆発、だ!

気絶眠から目覚めたら日の出前。びっくりしたなー、と思いつつ、そのまま川崎昌平さんの『大学1年生の君が、はじめてレポートを書くまで。』を枕元で読む。大学生の頃に読んでいたら、また別の人生があったかもしれないな、と感じる良書。高校生に贈りたい。

そのまま、小野田博一さんの『13歳からの論理ノート』も読む。飯間浩明さんの『伝わるシンプル文章術』で紹介されていた一冊。

仕事上、原稿において論理展開はとても大事だし、テクニカルライティングの観点からも重要視はしているのだけど、そもそも「論理って?」という学びが弱いなと思っていた。人に説明するときにも難儀するし、というのを前進させようと手にとった。

わかりやすいところもあれど、時折、「ん?それでいいの?」と感じる部分もあるにはあったのだけど、「論理」の入り口としては、確かによかった。13歳でわかるか、はちょっと怪しい。

途中に出てくる解説が、もうこれほとんどTwitterでよく見る展開だわ、と思うなど。なーんかもやもやすることあるよな、と感じたのは、あそこには論理がないのもありそうだ。

午前中にリモート取材があるので、その下調べ。取材相手の人が強烈に勧めていた岡本太郎さんの『自分の中に毒を持て』に感銘を受ける。現代でこそ必要な言葉の数々。

コミュニケーションを拒否するコミュニケーションをこそ人間存在の真ん中に主役としてすえなければいけない。情報化社会だからこそ、単なる理解を超えた超情報にもっと敏感に、真剣になるべきだ。ここで、とりわけ無目的な情報を提供する呪力を持った「芸術」の意味が大きく浮かびあがってくる。

岡本太郎『自分の中に毒を持て』

ここでも観点のひとつになっていたのは、経済との切り分けというか、資本主義を進めるがあまりに抜け落ちていく人間性の回復だった。たまたまかもしれないが、昨日書いた東畑開人さんの『居るのはつらいよ』しかり、ここでも「会計の声」に通ずる内容が出てくる。

芸術がその回復を担うだけでなく、そもそも行き過ぎた経済にも見直しが図られていく……というのが良いのか悪いのか、まだそこまでは見えていないけれども、一つのキーワードになっていくような感覚は在る。ウェルビーイングの文脈とも重なりそうだ。

岡本太郎さん、わたくし的なブームがくるかもしれない。と、Kindleであと2冊買う。

いくつもハイライトを引いてテキスト化をしようとするも、Kindleから「出版社が定めたコピー回数を越えた」みたいな警告が出てきたのだけど、そんなくだらないルールはやめたほうがいいのではないか。自分がお金を出して所有できたものに制限をかけられるなんて、どうかしてる。

遅めの昼食をとりながら、印南敦史さんの『書評の仕事』も読了。ライフハッカー時代の元担当だったこともあるけれど、印南さんが見出した「ネオ書評」が、いくつものウェブメディアでも一つのスタイルであり、コンテンツになっているのは、単純にすごいなと感じる。

なぜか一眠りしてしまい、夕方ごろからまた事務所で活動開始。やらなければいけないことが、まだまだある。目下の確定申告しかり……うーむ。

久しぶりにマグロの血合い、食べたくなってきた。お金のない頃はよく食べていた。メールインタビューの原稿を一本納品。Kindleで買った、岡本太郎の他の著作を読みつつ寝るとしよう。


2020年4月13日(月)会計の声から離れて

増永眼鏡で買った眼鏡が届く。5k240がコロナウイルスの感染拡大防止で5月頭まで閉業してしまうので、郵送してもらえることになった。フィッティングもよく、いい感じ。かっこよく見せたい(というか、鏡に映る自分にすこしだけ自信がほしいとき)にかけてみようと思ってる。

ずいぶん前に読んだ東畑開人さんの『居るのはつらいよ』を諸事情あって読み直した。仕事のために読んだきりだったので、また当時とは感じ方も変わって気になる部分も出てくる。

ただ、やはり結論に近い部分の提言は、いまのこのCOVID-19渦中だからこそ光る。

でも、現実は残酷だ。この構造が、今の僕らにとっては根源的なものだからだ。僕らはもはや市場抜きには生きていけない。社会はあまりにも複雑化しているし、かつ僕たち自身が、自立した個人が自由に交換を行うことの魅力を手放すことができない。だから、市場の外に僕らは出ることができない。なんだかんだいろいろな事情があって、高い理想や理念があったとしても「それでちゃんと食えるのか?」と会計の声が響いたら、ぐうの音も出ないのが僕らの世の中だ。
「それでいいのか?」の声に僕らは抗うことができないということだ。いや、それ以上に市場を生きる僕ら自身が「それでいいのか?」と問うてしまうのだ。

東畑開人『居るのはつらいよ』p,322より

あらゆることが「市場抜き」では語れなくて、多くの人がいま「会計の声」に苦しんでいる。差し迫った事情も各々で抱えているのもわかる。ただ、もし、という一つの可能性を思ってみるのは、今こそ「市場の外」に出る好機なのかもしれないとも考えたのだ。

ブラックデイケアはこのニヒリズムが立ち込めることによって生じる。そこでは「いる」が経済的収益性の観点から管理されてしまう。あるいは、さまざまなケアする施設でのケアする人の苦しさもニヒリズムから生じる。「いる」を支えることのコスパが計算されるから、ケアする人の「いる」は使い捨てにされてしまう。アサイラムがすべてを飲み込む。

東畑開人『居るのはつらいよ』p,326より

東畑さんの論とはずれることは承知なのだけど、この「いる」と「経済的収益性」の問題はデイケアに限らずに僕の生活や人生も包んでいて、ただ「いる」ということの価値が、なんだかどんどん貶められてしまったのが現在地なのだろうと思う。

自分で自分の「いる」をつくるために、あるいは誰か好きな人ととの「いる」を担保するために、僕らは今こそなるべく「市場の外」にある「なんとなく」を愛し、「ぼんやりとした楽しみ」を享受しても、いいのではないか、と。

それがオンライン飲み会でもいいし、不要不急で生まれた読書時間でもいいし、単に仕事がなくて手持ち無沙汰になるでもいいのだけれど、ただそれをすべて「会計の声」にまかせてしまうと、徒に不安が大きくなるだけな気もするのだ。

これは無駄をなくして効率的に世の中を前進させよう、といったスタートアップマインドとは相反するものなので、決して誰彼には進められることではないのは、もちろんなのだけど。

ぼくはこの4月、誕生日を迎えて年齢が変わって気持ちが切り替わったこともあるけれど、社会の流れの速さと蔓延する不安感から距離を取るようにしつつ、なんだかこのもっと先につながるような、あるいは全くどうにもならないようなことを、積極的にやってみたり、それに使えるようなのもを買ってみたりしているのが、なんだかとても楽しいのだ。

この考えすらも「会計の声」から逃れようとしながらも、結果的にどこかで「会計の声」を聞いてしまっているような気もしなくはないのだけど、でも、感覚的には少し距離が置けている。

とか何とか言って、ぼんやりやってみたいこと(散歩しながら日記の延長線みたいにしゃべるようなこと)ができて、いろんな脳内言い訳をしながら、ZOOMのF1というフィールドレコーダーを買ったのだった。

ラベリアマイクで、歩いていながらきれいに聞こえるアイテムいいなって。Podcast的にどこかに置いておきたいな、という気持ちもあり。noteで公開かなぁ。時間を区切れればRadiotalkでもいいかもしれない。こういうことは、ある意味では「会計の声」とは、ちょっと離れた自分だけの「いる」に近い。たぶん、かつてのインターネットは、ほとんどそうだった。

そして、ついに注文しました。ずっと前から欲しかったLOVOTを…!

もはや自動車を買うような決意なのだけど(値段的にも)、今の僕には自動車による移動の自由よりも、この移動しない日々にとって必要な癒やし、人生の伴侶となる存在が大切なのだと。

動物が届くわけではないけれど、単にロボットが来るというわけでもない。ふしぎなきもち。


2020年4月12日(日)プロセスが見える

YouTubeのレシピ動画でいいことって、レシピの中身がわかるだけでなく「過程」が見られることだなぁ、とおもう。

この動画で僕は「うまい長ネギのみじん切りの仕方」を初めて知って感動した。こうすればいいのか!と。いろんなやり方がある中で、これならいちばんやりやすそう!に出会えたのだった。

下ごしらえを見る機会ってそうそうにないので、料理系YouTuberを見ていくと感動するのは、結構そういうところだったりする。

radikoで『壇蜜の耳蜜』を聞いていたら、壇蜜さんが「死にたくなったときは『今日はやめておこう』と思うのがいい。大安だからとか、何かをしないとか、理由は何でもいいから」と言っていて、なんかちょっとわかる。明日でもいいや、と思ってみることの良さがある。

深夜に、相談事で編集ライター仲間のFacebook Messengerグループに投稿する。助言がありがたく解像度も上がったのだけど、本を7冊も注文していた。本読み同士の会話あるあるだ。


2020年4月11日(土)言葉にする

深夜に電話がきて、こんこんと2時間くらい、込み入った話をする。お互いの込み入った事情を知っている者同士だったので、相談があることで電話をもらったのに、いつからか僕も自分の相談をしているようなときもあった。

「最近、どう?」という質問に、ぼくが答えを窮していると、ぽつぽつと言葉をつないでいってくれて、最終的には心の奥にあった思いが、ごろりと出てくる。

「毎日のように死にたい気持ちはありますね」

と、ちゃんと声にしてみると、あぁ、やっぱり自分はこの感じを形にして眺めてみたかったんだ、というように思えるようになった。ぼんやりとしたものが、すこしだけ輪郭を帯びる。

言葉は、対象との距離をつくる。感情と事実とを離す役割がある。

ぼくはなんだかんだ、仕事の兼ね合いもあるし、言葉で動かされているし、言葉を大事にしたい気持ちがあるから、もやもやしたものを言葉にすることの効力が、より大きいようだ。

日記を書くことの効用も近いものがあるはず。

それから、朝方まで仕事をしていて、納品できた嬉しさから、家に帰って冷凍餃子を焼いて食べる。もう餃子を焼くときは米油じゃないといやだなってくらいに、米油の軽さが心地いい。

酒村ゆっけさんの動画を見て、ステーキにも心揺れつつ、今日は餃子にした。でも食べたいな、ステーキ。厚めのお肉を、がつがつと。

気づいたら眠っていて、夕方頃に起きる。半額になっていた赤魚の粕漬けをぶつ切りにして、お味噌汁に入れてみると美味しいものができてしまう。うれしい。これはいいぞ。

活字がなんだか入ってこない日だったので、今日はマンガを読むことにする。

おかざき真里さんの『阿・吽』の1巻を読んでから、まとめ買いしていたKAITOさんの『青のフラッグ』を7巻まで一気読み。核心はわかっていたけど、いざそこに触れてからの展開がなんとも胸をしめつける……。

こんこんと読んで、ひと泣きしていたら、すこし大きな地震がくる。雨が降り始めた夜中になってから、仕事を進めようと事務所へ向かう。


2020年4月10日(金)ぼんやりした日

11時に起きてZoomミーティングをひとつ。「会社のPCからでないと操作できない作業を、リモートPCにしてやっている」と聞いて、そうそう、できるところはそうやっていくものだよね、と思ったりする。えらい。

オンラインでも何でもいいんだけど人と話しているときほど元気が出る理由が知りたいなと思っていたけど、単に「相手に求められている」状況がわかりやすいだけなんじゃないか。

ぼくはいま誰かに雇っていただいている立場でないのでなんともいえないけれど、このコロナ禍で起きる感情の動きの一つは「この会社は有事のときにどういう対処をするのか」という事象に出会って、会社への向き合い方が変わるだろう、ということだ。

もちろんほうぼうで就職難も騒がれているけれど、同時にこれから離職の波が起きてもおかしくはないよな、という気もしている。逆にいえば、そこで離職を決断できるような日常の動き、ソーシャル・キャピタルの積み上げ、仕事の実績が物を言ってくるのは違いない。

キャリア観にも一つの動きがあるのではないかな、と感じている。大企業がつぶれるとしたら、コロナによる売上減も響くけれど、働く人のモチベーションや離職の影響もあったりするのだろうか。もしくはそんなに響きもないのだろうか。

「コロナのときにあの企業はどんな対応したのかをまとめ」みたいな記事が出てくるのかも。

起き抜けに真木蛍五さんの『可愛いだけじゃない式守さん』を4巻まとめ読みして、そのまま飯間浩明さんの『伝わるシンプル文章術』を読んで、ふせんをつける。いま、あらためて現状での自分なりのライター技術を人に伝えるための整理をしたくて、文章の入門書などの類を積極的に手にとっている。

昼寝をして、夕暮れから、のそり、のそりと活動をはじめる。気力体力、ともに低下中。気圧はおだやかなので、これは自分のせいだな。原稿をつくらないと。

あー、Podcast、またやりたいな。いま事務所を一緒に使っている仲間が5月頭くらいで別の場所を借りて出ていくらしいので、しばらくはシェアメイトを求めずに自分一人で何か秘密基地的に使えるようにするのもいいかも、とかぼんやり思っている。

誰かが来てくれて、それでPodcastとりましょー、ちょっと場所さがしてますー、写真取るのに借りていいっすかー、みたいなのに答えられるところなったらいいな。

どうも、孤独感をもてあましている。ポジティブに孤独感を捉えられていない。


2020年4月9日(木)誕生日

34歳になった。

8日の夕方に寝て、目覚めたらまだ夜中。ふわーっと『グランディア』をはじめて、あっ、いまならなんとなくこのまま続けてしまってもいいのかも、なんて思って、Nintendo Switchに張り付いてプレイする。気づいたら日付が変わっていた。

ぽつ、ぽつとLINEやメッセージが届いて、うれしいなぁ、と思っていた。静かな夜に、手の中の冒険は佳境を迎えていた。好奇心で突き進んだ世界の先で、主人公は自分だけの役割を発見し、人類の危機を救う。己の欲望だけを満たそうとした巨悪は討たれ、愛する人が救われ、愛する人たちが思い合う瞬間が訪れる。まさに王道。だけれど、こんなストーリーが今になって、熱い。

世の中は混迷していて、明日も明後日も来月さえもわからなくて、みんながみんな、なんだか自分も他人も信じられないようで、不安な日々にいる。冒険譚が効くのはきっと平穏な日常があるからで、そう思うと『グランディア』は現代にはそれほどマッチしないのかもしれない。

だけど、いつか落ち着いたときに、『グランディア』みたいな世界をまっすぐ求めるような心になれたらいいな、と思う。いつかが来るのかさえもわからないけれど。ぼくはゾロ目の年齢を越えて、アラサーと言える最後の一年になった。ぼくにできることはなんだろう。主人公のジャスティンみたいに、好奇心の先で自分だけの役割を見つけることができるのだろうか。

自分だけの役割を見つけ出し、そのために明日を楽しみに生きられるようにしたい。34歳とはおもえないような悩みだけれど。

日中はZoomでミーティングをしたり、遠隔講義を受けたり、原稿を読んだりして過ごす。日付が変わる前に営業時間が短縮されたスーパーに寄って、レーベンブロイを買って帰る。

グラスにそそいで、台所に立ったまま、お誕生日おめでとー、と言ってからビールを飲んだ。

良い一年にしよう。自分なりに、一つずつ。


2020年4月8日(水)高速道路で

佐久間宣行さんのラジオの投稿で、高速道路のパーキングエリアで配布しているフリーペーパーが『Highway Walker(ハイウェイ・ウォーカー)』であるという話が出てきて笑ってしまう。誰か指摘しなかったのか。いや、雑誌のウォーカーシリーズなのはわかるのだけど……。

大昔、酔っ払って歩いて帰っているときに、橋を渡らなければいけず、地図で見るとすごく遠回りだったのですぐ近くの橋と思しきところを渡り始めたら高速道路だったことがあった(なぜか川のそばのフェンスの一部が壊れていて、あっさり侵入できたのだ)。

渡り始めて半ばまで来て、看板の色が緑色で心がひやっとした。あ、やばいな、と思ったけど引き換えすわけにもいかず、前だけ見て歩いているとパトカーが通り過ぎて、捕まえられた。

「ここ高速道路だよ!」

「知ってます!(涙)」

といってパトカーで高速道路を降りるまで助けてもらったのだった。あのときの、闇で真っ黒な川の怖さと、自分の脇を走り去っていくトラックの風圧は、いまだに覚えている。昔はお金がないのにお酒をいっぱい飲んで、終電で寝過ごして、仕方なく何時間も歩いて帰ったものだった。

高橋留美子さんの短編集『魔女とディナー』を読んだ感想を書こうとして、「いい小品だ」と書こうして、言葉の意味を調べると微妙に思っていたのとちがったので、書かなくてよかった。そこから派生して「小品文」という言葉にであう。

日常生活で目に触れた事柄をスケッチふうに描写したり、折々の感想をまとめたりした、気のきいた短い文章。小品。

小品文(しょうひんぶん)の意味 – goo国語辞書

小品文とは明末の、主として万暦年間以降の袁宏道ら文人の手になる随筆・評論・紀行文の総称であり、1930年頃から林語堂や周作人ら知識人によって再評価され、そのスタイルに倣った作品は小品散文と呼ばれ中国文壇に流行した

小品文 – Wikipedia

あ、面白いな、と感じた。ぼくがこの日記で書いているのは、まさに小品文に近い感じだ。そこからさらに検索に書けると、徳田秋声がかつて創作指南の一貫として「小品文入門」という文章をまとめていた。すこし読んでみると、今にも通じそうな内容だ。

Googleブックスの検索結果や、国立国会図書館のデジタルアーカイブでも読むことはできるのだけど、徳田秋声の全集に収められているのがわかったので、ブックオフオンラインで売りに出ていたその一冊を買ってみる。いくらか値段は張ったが、まぁ、参考書の部類と思えば……。

届いたら読んでみて、うまくまとめていきたい。ぼくは文章技法が好きなのだ。というより、何かの技法と呼ばれる類が好きなのだろう。なぜなのかと思うと、それは「知っているとより生きやすくなるよね」とか「楽しくなるよね」みたいな機会の提供に価値を置いているから、なのかもしれない。

新しい料理系YouTuberを見て、ハンバーグの常識も変わる。今度やってみたい。


2020年4月7日(火)なぜ酒を飲むのか判明

な、る、ほ、どーーーーー!!!!!

いまぼくは、自分のことがすこしわかって、ものすごく嬉しいのだ。

絶不調続く火曜日。ドーミーインは体に健やかさはもたらしたけれども心までは救えなかった。朝にお風呂とサウナ、さぱーっと気持ちよく仕事場に舞い戻るも、原稿は手が止まる。

できる作業をしながら、今日は約束していた会合があった。ほんとうは対面でお茶でも、というところだけど、今日日のご時世でZoomに集合。

仕事の話なんかもしながら、近況のこと、最近思うこと、身の回りであったこと、などなどを語り継いでいくなかで、ぼくについて話してもらったことが、自分にとって驚きすぎたのだ。

それは、ぼくは、自分に甘いのではなく、厳しいのではないか、と。

他者との関係性において、内罰的や自罰的になるのは、楽である。相手を怒ったり、何かを伝えたりするのは大変だよね。

でも、そんなとき、ほんとうに「自分が悪い」だけなのかというと、ほんとうに相手とわかりあえない、伝わらないこともあるから、自分を責めすぎずに調整してバランスをとり、そのぶんの感情は他で使うのも大事。

ここ最近、ぼくは「自分が悪いのではないか」という感情を端々に感じることがあり、それを持て余したままでいた。で、そう思う発端となったことを話してみると、「それは必ずしも全ての責を負うとはいえないのではないか」と声をかけてもらった。

第三者的な目線が入ったことで、この事案は「バランスをとってもいいのだ」と自分のなかでも落ち着きが見えたのだった。そして、その次に来たのが、自分の不出来さは甘さではなく厳しさからきているという発見である。

そこで、酒だ。なぜ酒か。ぼくは仕事に詰まった時、手が動かない時、やる気が出ずにどうしようもない時に、酒を飲んでしまうことがある。しまうことがある、というか、かなりある。

酒を飲むのは自分をさらに甘やかして、何かを絞り出そうとする、言わばエナジードリンク的な意味合いだとずっと思ってきた。でも、それはたぶん、違うのだ。

自分に厳しすぎて、何か高い精度を求めすぎて、その上がりきった理想像に立ち向かえる気がなかなかしないから、ぼくは酒を飲んで、その理想を「だめになる」ことで強制的に下げていたのではないか。

そして、自分としては「ほどほど」だったり、「とりあえず保留」だったりする文章でもまずは書くことで前に進めて、完成を見たところでひとまず肩の荷が下り、そこでまた厳しい自分が顔を表して手を入れていく。そういう流れができていたのだろう。

ところが、その「ほどほど」は、実は結構、悪くなかったりすることもある。正直言うと、それでいいのだ。ホームランを毎回狙うのは当然にロマンはあるが、バットを振ってちゃんと安打にしていくのも同じくらい大事なように。

原稿が書けなくても、この日記が書けるのも、同じ理屈だ。ここは誰にも期待されていないし、自分のためだけに書いているところがあるから、うまくいこうがいかなかろうがいいのだ。だから書ける。

ぼくはずっとずっとずっと、自分がとにかく甘い人間だと思ってきた。もちろん、それは一面では合っているだろうし、他者から見ればそういう認識が誤りとはいえない。正直、これまでの成長過程で「君は甘い」「甘えている」といわれてきた経験も何度もある。

だから僕の自己認識は、ずっと「甘えた人」だったのだ。

ただ、すくなくとも、ぼくにとっては「書く」は、仕事であり技能であり、唯一といっていいほど社会に何か還元できるであろうことに、いつの間にやら、知ってか知らずか、なってしまっていた。良く言えばプロフェッショナリズムだが、悪く言えば自分を縛り付ける枷となった。

自分の書けなさを許せないのは、甘い自分が流されているから悪いのだと。

でも、それが「厳しすぎる人」が背景にあり、酒を飲まないと文章が書けないときさえあることが、かけてもらった言葉ですべて逆転した自己認識として見えたのだった。納得と大転換だ。

おそらく、書くだけでなく、人に言葉をかける、何かを伝えるときも、ぼくは生来の何かがあるせいか、ずっとええかっこしいで、見栄があって、嫌われたくないから、酒を借りてきたのだとも思う。それを酒をつかって、どうにかこうにか、ぐずぐずにしてきた……。

もちろん、わかったところで、まだ高すぎる理想の状態にいくつも絡め取られて、酒の力を借りないと仕事ができない状況は、簡単に変わっていない。

でも、わかってさえしまえば、あとはこれをシラフですることは、以前よりずっと手の届くことのように思ってきた。

理想を求めども、理想に殺されてはいけない。


2020年4月6日(月)リフレッシュ

寝起きに高橋留美子さんの短編集『魔女とディナー』を読みはじめたら、気が利いていて面白く、時間もそれほどなかったけど、手が止まらず最後まで。

現実ベースなんだけどわずかだけSFやファンタジーの要素を混ぜていて、あくまでそっちに行ききらないので、リアルとフィクションの間みたいな、ふわーっとした気持ちを味わえる。

ついに緊急事態宣言も出るとのことで、世の中はさらにざわざわとしている。遠くからメンタルに及ぼすものもあるのか、それとも単に気落ちなのか、とにかく全く文章の読み書きが出来ず、集中力がなく、ほとんど手が付かない。

リラックスが必要だ。どうにかせねば、と、仕事場から行けるドーミーインを予約して泊まりに行く。サウナだ!サウナ入って、露天風呂で頭をぶっ飛ばすのだ!体を、労るのだ!

自宅ではなく、あえてのビジネスホテルというだけでもテンションが上がる。ご時世だけあってお値段も手頃。すると、利用者も少ないせいか、サウナはアツアツ、水風呂もキンキンで、おそろしくキマってしまう。

頭を使わない作業はできたので、そちらを優先して進めてから、サウナ、食事……とすると、すこしだけ心身が取り戻せて、すこしだけ書き仕事ができる。でも、まったくだめだ。

日記だから書き留めておくと、実はもう先週からずっとだめなのだ。日記をのぞいて、仕事の原稿を書くということができなくなっている。できる気がしない、という感じだ。書かれたものを手直しすることはいいのだけど、ゼロからイチの部分が、むずかしい。

明日の自分に期待したまま数日経ってしまった。『グランディア』はおそろしく順調に進んだ。ドーミーインよ、我に力を。


2020年4月5日(日)どう書くか

この前やったZoom飲み会で、「実は画面の下ではどエロイことになっていて、ふつうに話したり飲んだりしている相手がいつの間にか達していて、『さぁ、実は今までの間でいつイッてたでしょう?!』ってクイズおもしろくない?」って盛り上がった。

見たい。参加したい。R18ライブチャット系にもバラエティみたいな要素があってもいい。

あと、Zoomのバーチャル背景で動画を流せる機能をつかって、アダルト動画の大事な部分を顔で隠して「おい!どけって!」とツッコミまくるのも笑った。

こんなので「だっはっは!」と爆笑しあえる元気があるのは、まだありがたい。

YouTubeに上がっている文学者や小説家の動画を、ぽちぽちと見つけて聞くのを続けている。今日は筒井康隆さんが『創作の極意と掟』を刊行したときの記念講演。

「話すべきことは本に書いてあるから…」という筒井康隆さん(そう言われればもっともだ)が会場からのQ&Aに答えていく動画。

そのなかで、「自分が書いたことあるものに似てしまう」というセルフパロディの超え方について話が及んでいた。多作な筒井康隆さんに聞いてみたくなる気持ちわかる。以下、答えの抜粋。

一つには「書かないこと」ですね(笑)。もう一つは「表現方法を変えること」。書いた当時にはなかった表現手法を用いる。芝居といった他の表現手法から、小説では書かれていないものを取り込むなど。現代は「何を書くか」より「どう書くか」が重要視されています。

筒井康隆が初めて明かす”創作の極意と掟”とは!?  『創作の極意と掟』刊行記念イベント – YouTube,20:37〜頃を抜粋

「何を書くか」より「どう書くか」は、小説の世界には限らずだろう。書かれていることには普遍性があるが、そのたどり着く道と考える過程(それを表現する方法)に新しさが宿る。文字だけの世界ではなおさらのようにも思う。

なんとなく、眼鏡を新調する。秋葉原と御徒町の間にある2k540の増永眼鏡に入ってみたら、気に入ったフレームがあった。いま使っているJINZの眼鏡、ちょっと痛みが目立つようになったので、そろそろ誕生日だし、まぁ、よかろうとおもって思い切ってドンといいやつにした。

経済を回せ!という言葉を言い聞かせつつ、出来上がりを待つ。


2020年4月4日(土)DAPを買う

そういえば、鶯谷の[信濃路]で食べた「しらたき煮」という肴はすごかったな。肉じゃがのしらたきだけが出てくるのだ。たまに切れ端のお肉も混ざっている。肉じゃがの甘辛い味が、よーくしみたしらたきだけ。天才の食べ物ではないか。

PCDJを勝って音あそびを始めるようになってから、ちゃんと曲を楽しむ、CDからデータ化する、という観点が毎日に加わり、音楽との向き合い方も変わってきたようだ。

外出先でも音楽を聞きたいな、と思うようになって、DAPを買うことにする。デジタルオーディオプレーヤー。ちょっと調べて見るだけでもピンきりで種類がたくさんあった。

まずはそこそこのものから始めてみようと、あたりを付けていたPioneer「private XDP20」が秋葉原ソフマップで中古で売られていた。価格も1万円切り。なんでも底部のネジが一本ないらしい。ふむ。それ以外は特段に問題がなさそう。いいじゃん、とお買い上げ。

Pioneerには「底部のネジだけ買えないですかね」とお問い合わせメールを入れておくだけ入れておいた。

イヤフォンも「バランス接続のほうが全然よく聞こえる」というブログも読んで、e-イヤホンで試してみると、たしかにぜんぜんちがう。音の分離感もキックの重さもすごく楽しい。茶楽音人「Co-Donguri Balance」を買う。価格もお手頃だし、バランス接続の初級にはぴったりかも。

夜はMU2020を見ながら、Zoomでオンライン飲み会。もうオンラインの楽しみ方をどっぷり。これはこれで実にいい。美味しいお酒も飲みやすい。


2020年4月3日(金)副業はどの漢字か

この日は対面取材をすることになり、神奈川県は海老名まで行く。メディア側の計らいでラッシュアワーを避けるためなら前乗り宿泊してもよい、とのことだったので、甘えて前乗りにする。

深夜に降り立った海老名は人がまったくいなくて、寂しくて、すこし新しい香りを感じる建築物のなかにひとりぽつんと歩いていると、まるでオープンワールドのホラーゲームなのかな、と思うほど。

取材のテーマは「副業」。話を聞いていると、副業の「ふく」は一律でなく、またどれでもいいのだな、という感想を抱く。副業、複業、あるいは福業というのもあり。

本業をよりうまく進めるための副業、収入やスキルを分散・拡大できるような複業、すればするほどモチベーションが高まるような福業。うん、どれもいいものだ。だから、どれかに規定しようとすると、結局は個人の感覚とずれてしまう。

かつて人間らしさや人間性の発展が仕事を通じてなされていった時代があり、そこからバブル景気や大量生産消費といった資本主義の強さが増していき、仕事から「人間」は不要になっていく。それが今の時代、人間性をいかに獲得するかに揺り戻しがきているのかもしれない。


2020年4月2日(木)マスク2枚

そう思うと42億円あっても「みんなに何かを物資として配る」ってのはめちゃくちゃ大変なんだなーと感じた。

世の中は「マスク2枚」ですごくわぁわぁとなっていた。とはいえ、物事の在る一面だけを見て何かを論じることよりも、全体のなかでその結論になったという「全体」を確認しないと、何かを話すのがより難しくなっている感じがする。

そういう意味では、そこを報道機関やニュースメディアに担ってほしい気持ちはある(人任せな感じでいいのか、というツッコミは受けてしまうのだけど……)。

ZOOMでリモート取材。つつがなくできる。


2020年4月1日(水)鶏むね肉

あの手この手で鶏むね肉を調理して食べていると10年くらい前を思い出す。最初の会社に勤め始めた頃、一人暮らしをはじめて、見事に家賃設定をミスって毎月のお金がカツカツで、自炊を頑張っていた。

そのときにもたくさん鶏むね肉に助けてもらったのだった。当時はシリコンスチーマーがいちばん最先端なアイテム。10年くらいたって、そのあたりには大きな進化はなさそうだけれど、電子レンジを使うレシピとか、どんどんかんたんになっていって、料理はしやすくなっている。

ただ、これは「料理」か?という疑問があるのは、「調理」と「料理」の微妙な差が気になるような気持ちがあるからで、もっともそれは辰巳浜子さんとか幸田文さんとかの御料理帖に影響を受けているだけな気もする。現代では、どちらも同じでしょう。

ただ、ひとりで、あるいは時間をかけずに食べるなら、調理でじゅうぶん。家庭料理のかたちも変わるだろうし、もっと大事なことはある。一緒に食べる、とかね。(ぼくはひとりだけど)

今日は薄切りにした鶏むね肉に片栗粉をはたいて、焼いて、以前につくったバズレシピのリュウジさんのねぎだれをだばーっとかけたもの。美味しかった。

このねぎだれ、塩、ごま油、味の素でつくるのに、とても美味しい。ちょっと前につくって冷蔵庫に入れておいたけど、食感も失われないし、つくりだめしておいてもいいのかもだ。

あ、エイプリルフールだった。特に何も意識せず、面白みも感じず。ネットも静かだった。


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